2006年1月7日土曜日

情報の価値

 日本のがん治療に関するNHKのスペシャルを見た。がん治療の地域格差の解消という問題についての議論だったが、結論は情報の足りなさとサポートシステムがないのは一番の問題だということだった。
 「経営とは情報の収集と処理だ」という経営者もいる。
 僕は毎日多くのニュースを読んでいる。その中から必要な情報を収集している。ニュースを読むだけで勉強になることも多いから、これからニュースによる情報収集の手法をちゃんと考えて整理したいと考えている。
 ある意味で毎日ニュースを見ることは一つの楽しみでもある。
 情報にはどれだけの価値があるのでしょうか。

 がん患者にとって一つの薬や治療法の情報は命となる。
 経営者にとって市場情報は莫大な利益になる。
 国にとって多くの情報は国家の安全になる。


 要は情報はいくらでも大きな価値を持っている。
 しかし、なぜ情報にはこれだけの価値を持つようになったのか?
 それは情報は一部の人にしかなく、他の多数の人にはない形になっているからだと思っている。情報の偏在性ということである。
 カネはカネのあるところに集まっていくような社会の仕組みを作ったのはカネのある人たちだ。同じように情報も一部の少数の人にしかないような仕組みになっている。これもまた情報のもっている人たちが作っているからだと思う。
 カネがカネのあるところに集まっていくような仕組みを緩和するのは社会福祉だと思う。これはカネについてのアンバランスが大きな社会矛盾を生じさせないような解消策である。
 情報についてはこのような解消策は、少なくとも多くの国ではまだ確立されていない。既存のマスメディアは結局情報発信側のツールに過ぎなく、情報のアンバランスの解消にはならない。インターネットは解消策のできる基盤になってはいるが、解消策が実際に作られるのは社会福祉同様行政に力が必要である。
 まだ情報福祉の必要性は十分認識されていないのではないでしょうか。


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2006年1月6日金曜日

朝日新聞の取材

 学科の取材の記事が1月10日の朝日新聞の夕刊に掲載されます。興味のある方はぜひ読んでみてください。

2006年1月5日木曜日

除雪

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 日本の北陸は大雪で大変なことになっている。雪を見て中学校時代学校前の道の除雪をしていたことを思い出す。
 日本の都市部での除雪はどうなっているかはわからないが、僕の出身の吉林省長春市では、雪が降ったとき、雪が止んでから24時間以内に、学校、会社、事業所などは必ず面している道の除雪をしなければならないという法令がある。24時間以内に道の除雪をしなかった事業所に対しては、罰金が課せられる。



 長春の初雪は大体毎年の11月初ごろ。その時期になると、中学生以上の学生は除雪道具を学校に持っていく。ある程度大きい雪が降ると、その翌朝の一限は全校の教員、生徒たちはみんな道の除雪をしに行く。各学校、会社の除雪担当の部分は最初から行政が決めていて、学校の場合はさらにそれを各クラスの担当に分けて、大体一クラスが担当するのは4車線道路の学校側の二車線の幅で、20メートルくらいの長さの部分になる。
 一時間目の授業(大雪のときは二時間目まで)が除雪になって授業をしないで済むから、ある意味では除雪は一つの楽しみだった。道の除雪をするときはできないが、校庭が担当になるときは校庭のど真ん中に雪だるまを作ったこともあった。
 最近中学生、高校生が除雪をすることがあまりなくなったという。5,6年前から除雪専門業者がたくさん増えて、多くの学校が業者を雇ってまとめてやってもらうようになった。また除雪機の性能がよくなり、たくさん使われるようになったから、人力での道路除雪がだんだん少なくなっている。
 クラスみんなで除雪をするのもなかなかいい思い出になるから、これも今の中高生の失ったものの一つかもしれない。


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2006年1月4日水曜日

山奥への郵便配達

postoffice 今日の『さんま玉緒のあんたの夢をかなえたろかSP』で、中国の山奥にある村へ、三日かけて郵便配達をしてみたいという夢をもつ20歳の女の子がいた。そして実際にその夢をかなえることになった。
 中国では道路がなく、山道しかない山奥にある村は少なくない。そのような村へ配達員は徒歩で片道二日三日かけて配達をしに行く。
 中国では去年そのような郵便配達を続けて20数年の配達員が優秀配達員として表彰され、全国の注目を浴びていた。実はこのような配達員は少なくない。今日の番組で取り上げた湖南省壺瓶山の配達員も20年以上この仕事を続けているそうだ。
 実は中国でも郵政民営化的な改革を行っている。今の管理機能と業務機能を持ち合わせている国家郵政局の管理部門と業務部門を分離し、管理部門を政府機関として、そして業務部門を会社として独立させるという。このような状況では、このような山奥への配達を行っている郵便局はなくなるのではないかと考えられるが、実は郵便局がなくなる前に、山奥にある村のほうが先になくなるかもしれないのだ。


 (写真は中国の都市部にある普通の郵便局)



 中国では子供が減少しているため、農村部にある小学校が閉校、合併を繰り返してきた。今では中心小学校を人口密集地に作り、周辺の村の子供をそこに通わせるか、寄宿舎に入ってもらう形をとっている。
 この小学校の合併は実は村合併の第一段階だと見られている。長期をかけて、山奥や、自然状況が極めて悪いところにある村をよりよい生活環境の村と合併し、村民を移住させることは実現されるに違いない。一部ではこのような移住は行われている。
 日本の過疎地と違うのは、中国の一部の村は過酷の生活状況にあって、その中に生活用水でさえ確保できない村もある。そのようなところでインフラ整備をするよりも村ごと移住させるのは得策のはずだ。環境破壊が進んでいる今では、このような移住政策はある程度の自然保護にもなると思う。


 中国の山奥への郵便配達の物語を題材にした映画は日本でも上映されていた。興味のある人はぜひDVDを見てみてください。山の郵便配達


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2006年1月3日火曜日

初詣をしてきた

bakutiku 今まで二回目の初詣だった。前回したのは高校現役生のとき冬休みのホームステイー先の子供と一緒にいたのだ。
 中国では初詣のようなものはない。基本的には旧正月になれば、帰省したり、親戚親友の家に行って挨拶をしたりするのは日本と同じで普通だが、初詣のようなみんなが神社という限定した場所に行って、おこなうような風習はない。
 初詣やおせち料理などはお正月をお正月らしくするものだ。これは今の中国の旧正月に足りないことだ。



 中国の正月料理といえば大晦日の夜にと、旧暦1月5日に家族全員で食べる餃子が代表的なものだ。昔餃子はお祝いに時や正月などでしか食べない贅沢な食べ物だった。更に作るのに手間がかかるから、家族みんながいて、速くたくさん作れるときだけの食べ物でもあった。ちなみに中国では餃子は主食で、中にはニンニクも入っていないし、味付けも割りと薄くしている。主食だから作るときにはある程度の量以上を作るのは普通だ。
 しかし、餃子は今の中国では普通の料理になっていつでも食べたいときには食べれるようになった。餃子屋さんが多くあるし、冷凍だが、十分おいしい餃子もたくさんある。何もお正月だけのものではなくなった。
 これが意味するのは、お正月の象徴が一つ減ったということだ。確かにお正月になれば街全体は正月モードになっていて、大晦日の夜に日本の紅白のような特別番組もあるが、お正月の象徴となるような代表的なものとは言えない。
 だから最近の子供たちはお正月はつまらないと言っている。
 このような現状で、お正月を代表できる唯一といってもいいものは爆竹だ。昔から爆竹はお正月の時にやるものになっている。ここで言う爆竹には花火も含むが、中国人は基本的には正月や店の開店、お年寄りの誕生日祝いなどの祝い事のときしかしない。そしてどちらかといえば花火よりも爆竹のほうが多い。
 この爆竹でも何年か前から環境汚染の理由で、お正月の決められて20日くらいの間以外では都市部では禁止された。これによって爆竹の多くの性格の中で正月の象徴だけが残って他はなくなった。
 お正月があるから爆竹の存在があるようになって、逆に爆竹があるからお正月はお正月らしい性格を失っていない。
 社会の進歩は差をどんどん作っていると同時に差をどんどんなくしている。伝統的なものは社会が進んでも残さなければならないと思う。今の中国ではこの伝統保護の意識は足りていないと思う。


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2006年1月2日月曜日

主観に囲まれている社会

 1660年に世界最初の新聞がドイツで誕生した。
 1920年に世界最初のラジオ放送がアメリカで始まった。
 1935年に世界最初のテレビ放送がドイツで始まった。
 1969年インターネットはアメリカで誕生した。


 われわれを囲まれている情報の伝達メディアの誕生はこのようになっている。新聞以外は全部ここ100年以内のことだ。もちろん、新聞が誕生する前にも、人々にはちゃんとした情報伝達の手段はあったが、新聞のような不特定多数に定期的に情報を伝えるものはほとんどなかったのではないかと思う。
 これからのメディアによって、われわれは種々の主観に囲まれるようになった。今になったらまさに社会そのものは主観によって作られるようになった。それはマスメディアが発達した現代社会の避けられない生活ではあるが。その中で救いとも言えるのは、メディアは一つだけではなく、多くあることだ。そのため多くの側面からものを知ることができるため、客観にある程度近づけるのだ。



 このような社会で生活するためには、手に入る情報は全部主観が入っているの物であること、そして、自分から情報を伝えるとき、それも自分の主観が入っていることを意識しなければならない。
 主観だから、もののある側面あるいはあるいくつかの側面しか見ていない。簡単に言うと、もののいい面を見ているとき、必ず悪い面もあるし、悪い面を見るとき、必ずいい面もあるはずだ。どちらの面を見ても問題ないが、重要なのは建設的な見方で見なければならないことだ。
 主観である以上伝える情報は加工される。そこでその情報を生かすような加工なのか、殺すような加工なのかで情報そのものの価値が決まってしまう。これほど書き手が重要である。
 書き手のことをあまたに入れて情報を読む。これはこの社会で生活するのに最も基本なルールである。これは誰もが知っているかもしれないが、できるのは難しい。


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2006年1月1日日曜日

あけましておめでとうございます!

 新年明けましておめでとうございます!


 今年もこのブログを見てくれるようよろしくお願いします!


 皆さんにとって今年はいい年でありますように!