2007年12月1日土曜日

古き良き横綱

 朝青龍は昨日、やっとモンゴルから来日し、謝罪をした。会見を見て、いくつか思ったことがあった。

 来日11年の朝青龍の日本語は非常に上達していて、ほぼ違和感なく聞くことができたが、やはりこれは外国人の日本語だ。自分も日本語を9年間使っていてよく思うことだが、日常的な使用や大学での勉強、研究では全く問題のないレベルに達しても、やはり日本語で自分の気持ちを伝えることは難しい。これは、日頃行なっている各種のプレゼンでも感じている。正確さが必要で、相手の気持ちに影響を与えるような場面では、言葉の選択や、声の出し方や、間の入れ方などが重要になってくるが、外国人にとってはそれは非常に難しい。

 朝青龍の会見も同じようなものだと感じた。会見では朝青龍は気持ちを偽りなく話していたかは確かめようがないので置いておくが、たとえ彼が自分の気持ちを完全に伝えようとしたとしても、おそらく会見そのものの印象はさほど変わらないではないかと思った。気持ちを完全に伝えられないという歯がゆさが残り、見る側もなんとなく釈然としないだろう。

 だいたい日本で活躍している外国人のスポーツ選手は母国語で会見行うのが多い。たまに日本語をしゃべっていても、聞く側はそれを外国人の日本語として認識し、その伝えきれなさを意識的か無意識に頭の中でカバーして聞く。しかし相撲の力士、特に朝青龍のような来日して長い力士の場合は、日本人と同じようにその言葉をとらえられることが多い。特にテレビではワンフレーズだけを流したりすることも多いので、さらにその言葉の真意が分かりにくくなる。

 日本の文化の代表である相撲の頂点に外国人が昇りつめることは初めてではないが、やはり本人も相撲協会も日本社会もそれをうまく対処できないでいる。横綱の品格を求めるのは当然のことだが、外国人を横綱にした以上、相撲協会が責任を持ってその横綱の言行を教育、管理しなければならない。今回の騒動が起こるまでの相撲協会はどのような態度をとってきたかが問題だろう。

 外国人は古き良き日本を内心から日本人と同じように理解するのはおそらく不可能なことで、外国人横綱に今までの大横綱たちと同じように求めるのは、それを考慮した上でなければならない。そもそも、今の日本人の中の「古き良き日本」は、本当に良かったのかも確かではない。三丁目の夕日の時代は環境が悪く、汚染も多かった。美しいというイメージを当時の人たちが今の日本人よりも持っていたとは思えない。それでも、今の日本人は三丁目の夕日に憧れるのは、「美しい」というイメージが頭の中でつくりだされていて、それをあの時代にあてはめただけではないかと思う。

 人々は朝青龍に求めているのは、日本人の頭の中の「美しい」横綱像のようになることかもしれない。それは悪いことではない、むしろもっともなことであるが、その横綱像を朝青龍が日本人と共有することは至難かもしれない。

 ここでは議論しないが、朝青龍問題でほかに思ったことをあげておく。
 ・テレビでは、視聴者のアンケートを行なっているが、相撲を実際に見に行く人やテレビで見る人とほとんど見ない人のアンケートを分けて取るべきではないか。
 ・相撲はどちらかといえば文化なのか、スポーツなのか。
 ・高砂親方が駄目だという論調がほとんどだが、朝青龍を育てた親方の評価をもっと全面的に行い、親方と横綱の関係がこうなってしまった背景と相撲協会の問題をもっと分析すべきではないか。
 ・テレビに出て、コメントをしている元力士は、現役時代弱い人ほど朝青龍に対して厳しいスタンスをとっている気がする。